ぼくは子供の頃「絵を描く才能がある」と大人達から言われた事があるけれど
絵が描ける人はごまんといるわけで、実際は絵を描く才能というのは存在しないと思っている。
発明家のエジソンが言った「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」という有名な名言が示す通り
『ひらめき』ここであえて好きな事と言ってみるけれど
この好きな事を極めるにはエジソンの名言のように努力が必要という事だ。
そんな好きな事で頑張ってる姿を見て人は才能があるという風に感じるのではないでしょうか?
つまり絵を描くという事を例にとってみれば
子供時代何かをきっかけに絵が好きになる=絵を毎日描くようになる。
すると必然的に絵が上達するようになる。
それを見た大人達はこの子には絵を描く才能があるという風に錯覚するという事なのです。
きっかけとなる何かとは親や保育士読み聞かせた絵本なのかも知れないし、テレビや体験からかも知れないけれど
何かを好きになるという事は人せれぞれ、きっかけがあって
ぼくが仏画に興味を持ったそもそもの始まりも祖父が持っていた仏画の本が始まりであった。
それが元で今では宗教関係の絵を描いたりチベット文化圏に行くようになったりしたのだけれど(^-^;
この記事では絵を描く才能とは一体なんなのか?
という事についてチベットを旅する画家であるぼくが詳しく掘り下げたいと思います。
【絵を描く才能は遺伝するのか?】
そもそも絵の才能ってなんなのか?
よく才能は遺伝で受け継がれるという人がいるけれど、実はそれは間違いであると断言したい。
なぜなら・・
ぼくの両親、親族に絵を描いている人がいないからである!
ただ、ぼくの母、祖父は習字が得意で字の書き方自体は遺伝するかもしれないが
やっぱり絵を描くという才能が遺伝するという信憑性は疑わしい。
では、なぜぼくだけが絵を描くようになり個展まで開けるようになったのか?
【才能が無くても絵が上達する理由】
もし本当に才能というのが存在するならば、それは生まれ育った家庭環境が原因だと思う。
刺激的な家庭環境に生まれ育ったならば
そんな親を見ながら様々な刺激にさらされるので才能が育みやすい。
では、そういった環境の中で育った人間だけが才能が開花するのか?
と言えばそんな事はなく
努力と継続力さえあれば絵は上達するという事なのだ。
例えばぼくがアクリル絵の具を使った絵を描き始めた頃は本当に下手だった。
当時ぼくは漫画を描いていて漫画用のGペンや丸ペンを使った漫画に関しては
中学以降描き続けていたのでまぁまぁ画力はあった方だったと思うけれど
絵は美術の授業で少し使った程度だったので商品として売る絵を描く為にはまだまだ努力が必要であった。
漫画の専門学校で漫画制作のかたわら、半ば独学で描いていけたのは
漫画よりも絵を描く方が面白かったからだ。
ぼくが専門学校の授業で絵と出会い担当の先生のおかげで個展を開けたというのは、ある意味『運』だったが
絵を教えてくれた担当の先生が「個展を開こう」と言ってくれた一番の理由は
後にぼくに語った所によると集中力があると思ってくれたからなんだそう。
ただ集中力があったのは学校という特殊な環境の中、漫画家を目指す同じ志を持つ沢山の人がいて
そんな彼らと共に作業をしなければならなかったというのが大きかった。
それと、ぼくは専門学校に通う為に一度就職をして学費を全て貯めたからお金を無駄にしたくなかったのもある。
ともかくぼくは集中して絵を描いていったが独学だったので中々上達するのは遅かった。
これが独学の悪い所で師がいない分、好きなように描けるが絵の具や筆の使い方等は全て自分で学ばなければならない為
上達するのが遅くなる。
それでも何年もバイトの合間に絵を描き続けた事で絵柄は変わり細かくなっていった。
つまりぼくが何を言いたいかというと
絵が上達するのは継続力と学びであり、続ける事も才能の一つといって過言ではないでしょうか?
そして一番のジャンピングボードは絵を教えてもらう事で、それが実感したのはネパールで仏画を教えてもらった後の事だった。
修行中、筆の使い方も絵の具の使い方も分からなかったがプロの絵師さん達から使い方等を指示されながら3ヶ月間学んだら
ぼくの絵は全く違うものとなっていた。
もしネパールに行かなかったら、今のような絵にはなっていなかったと思う・・。
故にもし今描いてる絵よりワンランク上にいきたいという場合はやっぱり教えてもらうという事が一番の方法だ。
独学で上達させる場合はこちらの記事も参考に。
【愛があるから絵が描ける】
ぼくが絵を描くのを長年続けられるという事とチベットを旅するのが止められないのは
ちょっとクサイ言い方をするとそこに『愛』があるからです。
何かに愛を注ぐ事が出来ると独自で色々調べていく内に知らない間に上達していくものです。
ネパールに仏画を学びに行ったのも始まりはチベット文化が美しい!
とラダックで感じてしまった事がきっかけだったので、絵のような技術的な面以外でも
何かを好きになるという事は何かを学んでみたいという始まりであり、それが『愛』へと繋がっていくのだと思います。
ぼくの場合を言えばネパールに行った後も情報収集をして東チベット等の旅を続ける事になりブログで発信するようになったが
それは好きだから、あの場所に戻りたいという思いがあったこそだ。
因みに何故そんなにチベットにぼくがこだわっているかというと文化は勿論のこと
チベットの壁画が美しいと感じているからだ。
つまり壁画から絵のイメージを膨らませたり絵を描き続けるモチベを得ているので『絵』と『旅』がいい具合に循環しているのだ。
絵の話に戻すとなぜ『愛』があれば上達するのかを具体的に話すと
絵が得意な人というのは絵を描く事が好きで頭の中にある世界を表現する事が好きだったりする。
それを形にするため調べて絵にする。
学校に絵を学びに行くのも筆や絵の具の使い方を学ぶのも好きだからこそ学ぶのであって
絵を描く事が好きじゃない人にいくら絵の魅力を説いても
本人が興味がなければ絵を描く事はない。
絵描きにとってただ単に好きだから絵が上達するという事ではなく
好きだから学んでみたい、描き続けたいという思いが
自分の中にあるからこそ絵を続ける事ができ努力した結果なんですね。
そして絵が上手くなれるか否かはどこまで絵に対して愛情を注ぐ事が出来るかが鍵であるという事なのです。
【絵が上手くなる人は決断力がある人?】
絵が上手い人や絵を描いて収入を得て生活している人は決断力がある人が多い。
それは何故なのか?
絵を上手くするには誰かに学んだ方がいいという話をしたが
それをするには決断するという事をしないといけない。
つまりぼくは漫画家になりたいという思いからお金を貯め専門学校に入学したのも、ネパールで仏画に学びに行ったのも
行く事により絵が上手くなるかも知れない。漫画家になれるかもしれない。
でもそれを得るには何かを捨てなくてはいけない。
ぼくは何か行動する為に何度も会社を辞めている社会不適合者だ。
よく絵を買ってくれてる友人の叔父さんから
そんな生活をしているといつか大変な事になるって言われてるが、当面変えるつもりもない。
なぜなら絵を描いて旅をして自由な生活をしたいと思っているからだ。
でも、その生活を作るのは難しいという事も知っている。
会社から解放された自由な生活を送ってる人は、その方法を自分で考えたか誰かから学んで実践して成功したかで
そこには決断力が必要になる。
以前ぼくはオーストラリアで路上で絵を売った事があるが
ぼくにとって本当に大きな決断だった。
海外で絵を売るという事は人前で絵を描きながらお客と話ながら売るという事だから
英語力とコミュニケーション力が必要になる。
ぼくは英語も苦手で
イエ~!フォ~!!
とか言うタイプでもないし緊張してどもってしまう事もしばしば。
それでも行ったのは毎日続いている会社生活が変わって欲しかったし路上で絵を売って大金を獲たという画家の話を聞いたからだ。
拠点としたバイロンベイでは路上で絵を売る人や歌を歌ってる人がいたが、ぼくは彼らの中に混じって絵を売るという生活をした。
でも中々うまくいかなくて毎日パンとクッキーとジュースで過ごすという節約生活。
引くに引けない状況を作ってしまったが、それが逆に絵を売らなければお金が獲られないという事に繋がっていくという事で
大金を獲たという画家さんは知恵を働かせ方法等を考え実践していった結果なんだろうと思う。
そこに才能云々は存在しない。
自分で考え絵を売るという方法は誰にでもあるだろうし方法もいくつもある。
引くも前に行くのも自由だが何かを得るには決断しかないという事なのだ。
【まとめ】
絵を描く才能とは環境でつちかっていくものだが絵を上手く描けるようになる為には好きになるという事が必要という事だ。
そしてさらに上にいきたいと思うならば誰かに学ぶ事が近道であり決断力が一番大事である。
ぼくはこれからも絵を描いていくし、いつかまた決断を迫られるような時がやってくると思うが
前向きにやっていこうと思う。
絵を描いて生活していきたいと思う事は会社で働く事が当たり前な日本社会から道を外れるという事だからだ。
ぼくは何度も不安に押し潰されそうになってきたが、絵とチベット旅が何度もぼくを救ってきた。
好きになった事をする事で不安をまぎらわせる効果もあるし人生を明るくさせると思うので
才能がないから自分には出来ないと思わずにとりあえずやっていく事、自分の活動を発信する事が大事なのだと思っています。