今回伺ったのは新潟市江南区諏訪の亀田(きでん)寺という曹洞宗のお寺。
住宅街の中にある立派なお寺で某ブログで旧亀田(かめだ)町の地名の由来となったお寺として紹介されていましたが
ご住職との取材の中でご関係はないという事が判明。
今回もお寺の歴史やご住職の個人なお話を伺ってきましたのでご覧下さい。
因みに亀田町の由来は元々、中谷内新田という名前だったが1693年に町場建設中に一匹の亀が現れた事から町の名前が亀田になったようです。
【亀田寺の歴史】
村木山亀田寺は元は元禄元年開創の亀頭庵(きとうあん)というお寺で
村木家二代(北屋さま)村木茂左右衛門の墓所を守る為に庵(いおり※小さなお寺)をつくった事が亀田寺の始まりで
墓所がこの地にある理由については、はっきりとした資料は無いが新発田藩主溝口のお殿様より村木家の方がお伺いをたて、同地を拝領したらしい。
明治時代になると禅宗のお寺が余りないという事で亀頭庵を管理していた方がお寺にするため奔走する。
そんな時、現在の福島県いわき市の西福寺(天文3年1534年開創)が廃寺になり亀頭庵の場所に移転する(書類上)許可を新潟県知事、福島県知事に申請し許可となる。
その後一時的に亀頭庵は西福寺と名を改めるが、当時のご住職が亀田に因んだお寺の名前に戻したいという理由で亀田の寺「亀田寺」と改称、許可された事で亀田寺が始まった。
また、西福寺のご本尊の阿弥陀如来を亀田寺に移動し本尊の釈迦牟尼佛と共に脇本尊としてお祀りしている。
因みに稲葉山近くに亀田寺の墓地があったのだが昭和の始めに開発され全て移転。現在の亀田の火葬場近くに亀田町の共同墓地としてつくられた。
【亀田寺の見所】
本堂には本尊の釈迦牟尼佛と文殊菩薩、普賢菩薩、脇本尊の阿弥陀如来、脇侍に阿難尊者、迦葉尊者が祀られている。
また檀家さんが模写をして描いた亀田八景の絵が本堂に展示されている。
亀田八景というのは亀田の美しい風景を後世に残すため大倉南岱が絵師や文人を招き亀田の風景を描かせ木版画にしたもので
八景のうち一つに亀頭(きとう)の秋月(しゅうげつ)という絵があるが、それが亀田寺の前身、亀頭庵である。
因みに亀頭の秋月の意味は亀頭庵の裏山にかかる月が美しい名所であった事から名付けられた。
開山堂には葬儀の時に火葬する所まで身内の方が並んだ際に先導の方が地蔵菩薩を持ち焼場まで行ったという古い地蔵菩薩が祀られており、位牌堂左奥には檀家さんが願いをもって何十年も彫った木彫りの仏像が奉納されている。
本堂奥にある観音堂にある大慈大悲観世音菩薩像は京都の仏師、人間国宝の松久宗琳師によるもので
聖観音(普通の観音菩薩)の蓮華を持った基本形と慈母観音が赤ちゃんにおっぱいを与えている象徴としての壺を持った姿を合わさった形で作られている。
観音像の回りには西国三十三観音像が祀られており床には西国三十三観音霊場のお砂踏みが出来るようになっている。
本堂左側には観音菩薩、文殊菩薩、誕生仏(仏像前に仏教四大聖地ルンビニー、ブッダガヤー、サールナート、クシーナガルの砂も納められている)が祀られている。
また本堂内には、とある行者の方が亀田に逗留している時に一本の木から掘り出した秘仏の優婆尊(うばそん)が祀られている。
本堂右側には北山に安置されていた地蔵菩薩が祀られている。
境内には亀頭庵の礎となった村木家のお墓や分家、ご住職のご先祖、歴代住職のお墓があり本堂手前には護法堂がある。
また山門手前には戦争で亡くなった方の菩提を弔う為に祀られている平和観音や如意輪観音、句碑、お経の塚、庚申塔、芭蕉塚がある。
地蔵堂には北山にあった大きな地蔵菩薩(北を向いている事から北向き地蔵と言われている)が祀られている。
亀田寺の山門は本堂に対して斜めであるが理由について土地がないからとの事。
【亀田寺住職にインタビュー】
●お坊さんになった理由
ご住職はお寺の長男として生まれ、発心(お坊さんになろうという心)して出家したという訳ではなかったようですが
「このお寺は自分が育った場所なので守っていかないといけないんだろうな」
と小さい頃から心の底で思っていた事と何か他の仕事をした時に
「やがてお寺を守らなければならない」
という思いがあった為、一般の大学を卒業後、駒沢大学に2年間入り直したが方向性が定まらなくなり退学。
その後、横浜の総持寺で4年間修行し亀田寺の住職になったとの事です。
●お坊さんになって良かった事
「滅多にない事ですが、おじさんの話を聞いて少し心が落ち着いた、とたまに言われると坊さん冥利かなと思う事はあります。」
●日々大切にしている事
お寺ではほとんど毎朝、座禅をする人が来ており休みなく継続している事と檀家さんの家へ毎月のお経のお勤めに行ったり
フリーの時間がない中、接点を作り繋がりを持ちながら続けていく事が大切であると感じておられるようでした。
●お寺の衰退について
「衰退しているという事は事実。
それはお寺側のエネルギーが足りないと思います。
元々お寺は人が集まって色々やる所だったのだけれど戦争に向かっていく中で神道が中心になり
お寺は葬式等をやっていればいいという風に国の政策がなってきて布教活動が表に出なくなってきた。
そういった大きな流れの中でお寺をもり立てていくエネルギーがお坊さんの方に足りていないというのが衰退の一つの原因だと思います。
そうすると人様の心も離れていくしお寺は葬式ばかりする所だ、というイメージになっていく。」
【まとめ】
亀田寺を知ったきっかけは以前取材に伺ったお寺から教えてもらい連絡をとり取材が実現できたのですが
亀田寺の写真をメディアで初めて知った時
こんな美しいお寺が江南区にあるんだ!
と、率直に思いました。
ぼく自身知らないだけで新潟には素敵なお寺がまだまだ沢山あると思うので、取材に行く事が出来たらどんどん紹介していこうと思います。