関川村のお寺初取材!書をたしなむご住職がいる雲泉寺へ

今回取材に訪れたのは関川村土沢にある雲泉寺。

 

前回取材に伺った長谷寺さんからのご紹介で、ご住職は長谷寺ご住職の友人でもある雲泉寺29世の神田恭真さん

 

神田さんは筆を使ってお経や禅語、達磨図等の書道による布教活動を続けているご住職でブログにて仏教や自身の活動について発信している。

■雲泉寺 -墨蹟最期の地-
http://unsenji.seesaa.net/

今回もご住職にインタビュー取材を行ったのでご覧下さい。

【雲泉寺の歴史】

龍峰山雲泉寺は延文3年(1359年)頃、源翁心昭(げんのう しんしょう)により開山。

 

当初は光兎山系修験者の庵であった真言宗の知足庵で源翁和尚と師弟関係の間柄である法秀阿闍梨の住まいだった。

 

法秀阿闍梨は天に龍を見て寺名を龍峰院と改名。

 

その後、源翁和尚が龍峰院に訪れるが法秀阿闍梨は間もなく遷化(高僧が亡くなる事)
法秀阿闍梨を火葬した際には境内の杉の木が倒れ、そこから温泉が湧き出た事から温泉寺と改める。

源翁和尚はその杉の木から師匠の峨山禅師の尊像を彫刻。

温泉は修行道場の場でもあった為、壊されてしまい現在では本堂左奥にある石碑だけが残っている。

その後、温泉寺は雲泉寺と改名し信者に支えられながら現在まで続いている。

【雲泉寺の見所】

本尊は釈迦如来、脇侍に文殊菩薩と普賢菩薩(村上市城主松平大和守より拝領)

開山堂には雲泉寺を開いた源翁和尚、峨山韶碩(總持寺二世)、道元禅師、瑩山禅師のお像が奉っている。

境内には観音菩薩が奉られている祠や六地蔵があり、駐車場手前にある梵鐘は二代目で一代目は戦争の時に消失。

また今回特別に鐘を突かせて頂きました!(とても良い音色でした!)

近くには一回まわすとお経を唱えた事になる摩尼車があるお地蔵が奉っている。

本堂左奥の階段を登った林の中には歴代住職のお墓があり、その先に少し登った所にあるのが雲泉寺を開いた源翁和尚のお墓である。

因みに歴代住職のお墓へと続く階段は最近出来たもので以前は足場の悪い道を進まないと行けなかったようです。

【令和4年8月豪雨の影響】

令和4年8月3日から4日にかけて関川村で記録的な豪雨が発生した。

豪雨の影響で土砂崩れや浸水被害等、各地で被害を受けたが雲泉寺も例外ではなく

庫裡や禅堂、本堂の床上浸水、道路の陥没、永代供養墓の崩落、池に土砂流入、崖崩れ等の被害をうけた。

現在(2023現在)は建物の中は復旧したが境内には豪雨の影響の爪痕が随所に残っており

修行道場だった頃の名残である禅堂も被害を受けた為、取り壊される予定のようです。

【神田恭真さんにインタビュー】

●お坊さんになった理由

三兄弟の三男として生まれた神田さんは元々、お坊さんの道む予定はなかったが駒沢大学で心理学を学んでいる際、祖父が亡くなった事で実家に戻り、お葬式に参加した事でお坊さんになる事を志したようです。

●お坊さんになって良かった事

「大学で仏教の勉強をしていても、よく分からなかったのですが実際に住職として
檀家さんの葬式や法事をする際にお経をお唱えする時の、お経の内容(お釈迦様が言った事)には大事な事が沢山書いてあり、それを知れたかのが良かったですね」

●仏教について思う事

「迷った時に助けてくれる言葉を教えてくれる。

しかもそれが2500年位前からずっと伝わっている事なので普遍的でいつでも当てはまる凄い言葉なんだと思う。

困った時に助けてくれる言葉を沢山言っているので良い教えだと思います。」

●日々大切にしている事

「修行道場にいれば自分がお坊さんなんだと実感があって毎日、沢山のお坊さんの中で修行してお経上げたりしているのですが

住職になると一人なので自信を失くしてしまう事があるのですが、そういった中で大切にしているのは教えを説く事を忘れないようにしています。」

●書を始めたきっかけ

「普通の習字は小学校から駒沢大学までやっていました。卒業後、愛媛のお寺で修行した後に四国八十八箇所を回ったのですが記念にお寺の名前を全部書こうと思った事がきっかけですね。」

●四国八十八箇所の思い出

「愛媛県の横峰寺で山道からずっと登っていくのですが犬が登山口に現れまして

その犬がお寺まで案内してくれまして、お参りしている時もずっと待っていて終わったら帰り道もずっと先導してくれた不思議な犬がいた事が印象的でした。

昔、横峰寺ともう一つのお寺を手紙のやり取りをする犬がいたみたいですが今はそういった犬はいないという事を聞いたのですが私が行ったらいましたね。」

●好きな言葉

「質直意柔軟(しちじきいにゅうなん)というお経の中に出てくる言葉で質直というのが素直という事。

柔軟が色んな事に柔らかく対処出来るような意味ですね。

 

“素直で柔らかに”

 

 

という意味です。」

●神田さんにとって書とは

「私がお坊さんとして常に確認する為のものでもあったり、私なりの布教の方法でもあったりします。

昭和の時代位まで書く人がいっぱいいたのですが私で多分最後だと思っているので重要な布教だと思ってやっていますね。」

●墨蹟最期の地とは

「私が墨蹟という名前で活動しているので、こういう活動をしている人の最期という意味だったり

お寺で私も最期を迎えるので、そういった意味での最期もあります。」

●これからやってみたい事

「書は常にずっとやってみたい事に存在し続けているのですが、それ以外ですと映画が好きなので映画を撮りたいなと思っております。
スマホとかでも映像作品を撮れると思うので私の書だったりを動画にして生涯残したいなと思っています。」

●お寺が衰退している事について

「関川村もそうですが人口がどんどん減ってきておりまして、皆さんが関東圏に行ってしまうと帰って来なかったりして村も空き家が増えたり、お墓の継承も難しくなってきている。

お坊さんの人数も減ってきていますので人数がいれば凄い力になるのですが、お坊さんが減ってきているのでお坊さん一人一人が自分のやりたい布教を見つけて、それに取り組んでいく事が大事ですね。

今までの時代は例えば両親とか家族構成とかも変わってきちゃいましたし、家の両親がやっていた法事とかの姿を見ているので

今の60~70代の方は、それが自然に出来るのですが次の世代となると難しいと思うので色々な事(儀式やお経の内容等)を説明出来るようにしたいなと思っています。

賃金とかも減ってきていますし本当に皆さん大変な中でお寺に御布施とかを頂くので

お坊さんがもっと、お釈迦様が言ったような本質的な仏教の布教を頑張らないとお坊さん自体から衰退していくんだろうなと思う。

一番大事なのは、お寺の住職になると檀家さんと仲良くしたり近隣のお寺様と先輩後輩仲良くしていくのが一番だと思っています。」

【まとめ】

今回の取材で初の関川村のお寺取材になりました。

関川村のお寺と言えば昨年の令和4年8月豪雨の影響で被害をうけたお寺がテレビでよく流れていたけれど、今回の雲泉寺もまた豪雨の影響が今だ残っており

配布用の雲泉寺豪雨被害報告の用紙には当時の被害をうけたお寺の様子が写真・説明付で紹介されていて大変な状況であったというのが見てとれました。

また、雲泉寺の歴史を語っていた禅堂が豪雨被害の影響で取り壊される事になるのは残念でなりませんが、それだけ豪雨の影響は凄かったという事です。

それでは次回、お寺へ取材に行く事が出来れば紹介していこうと思います。ではでは…..

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