新潟県を代表する彫刻家の星野健司さんにインタビュー!

新潟県を代表する彫刻家の星野健司さんと知り合ったのは加茂市の双璧寺さんからのご紹介だった。

 

双璧寺住職を勤める俳人、坂内文應さんに連絡した際

 

星野さんをご紹介して頂けるはこびになり、後日顔合わせをかねて3人でお寺でお昼を頂く事になりました。

その時、星野さんに取材のお願いをした所、ご快諾していただき

 

後日、星野さんのアトリエで取材する事になったのだ。

 

取材はアトリエ2階で行われたのだがソファーの前には描きかけの絵があり彫刻以外にも作品の制作しているという事が初めて知りました!

また、取材終了後に一階の作業スペースを見学しましたが数々の彫刻や彫刻を作る為に必要な道具等

貴重な品々を見る事ができました!

それでは星野さんのアトリエで行われた取材の様子をご覧下さい。

【彫刻家・星野健司】

1951年 新潟市(旧西蒲原郡巻町)生

1976年 多摩美術大学大学院彫刻専攻を修了。

1978年 くぬぎ画廊(銀座)で個展を開催。

1991年 日伊(欧)国際交流展センツァフロンティエーレなどに参加。

1996年 横浜彫刻展96入賞彫刻設置。(横浜市)

1997年 童展参加。(伊豆、銀座アートギャラリー等 04年、05年、08年)

2000年 大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2000に参加(2003年、2006年)

2007年 第15回センツァフロンティエーレTOKYO(セッションハウス神楽坂)

2010年 WARABE2010(セッションハウス神楽坂他 12年、14年、15年、16年)

2012年 GUN新潟に前衛があった頃 出品(新潟県立近代美術館)

2017年 コンペ「Dojima River Award 2017-NUDE」で佳作を受賞。

【星野健司さんにインタビュー】

Q.彫刻家になったきっかけとは何ですか?

A.昔から漫画が大好きで『鉄人28号』とか『鉄腕アトム』をずっと読んでいたのですが

高校になって美術部に入ったんですよ。

 

美術部の先生が市橋哲夫先生で、その先生から絵を習ったりしたのですが

美術教室の一番後ろの所に石膏像が置いてあるわけですよ。

 

その上の壁に木炭デッサンが張ってあったんです。

 

 

高校の先輩達が描いたデッサンで、これが凄くうまいんですよ。

 

ああいうデッサンを描いて東京に進学したんだな、と思ったんです。

 

美術部に入った当初、先輩達から

 

 

「絵を描くんだからデッサンからやらないとダメだ」

 

 

と言われて彫像を置いて、描いたりしたんですね。

 

自分は描けるかな、と思ってやったんだけど

木炭紙と木炭を初めて使ったのですが全く描けなくて凄く落ち込みました。

 

ただ、三作目位しつこく描いていたら何か少しずつ形になってきて

出来るようになると、のめり込むじゃないですか。

そういう所(デッサン)からのめり込みました。

 

その当時、まだ進路を決めてはいなかったんだけど一年生の終わり位に

美術の方にいきたいという感じがしたので美術部の市橋先生に相談したら

 

「じゃあ、デッサンの試験があるから、ここで俺が教えるわけにもいかないので夏休みに東京の夏期講習に一回出てこい」

 

と言われて

すいどーばた美術学院で夏期講習を二週間受けたんです。

 

あそこは美術の予備校なもんだから普段はデッサンをやっているわけですが

夏休み中は普段来ている学生は休みになり地方から受験生がいっぱい来ます。

そこに通った事で段々、そっちの方向に向いていったんですよ。

 

ただ、初めはデザインをやろうと思いました。

 

その後、日本画をやろうと思って凄く色々考えました。

 

その後に彫刻になりました。

 

何故かというと市橋先生が赴任されてきた時に前の美術の先生が体を壊されて辞められたんです。

辞めた丸山先生が巻に療養していらっしゃったんですよ。

その先生にも自分が描いたデッサンを見てもらおうと思って会いに行きました。

 

そしたら

 

「一応描けてはいるけど何だか弱々しいよな。もっと強く、力強く!」

 

と言われて

その時に彫刻家のデッサンというヌードモデル(裸婦)を木炭で描いたものを見せてもらった時に

もの凄い迫力があって、その時から彫刻家になろうと決めました。

 

それで多摩美術大学に受験したのですが

受験当日にラボルトという石膏が置いてあり、その回りにイーゼルが並べてあってくじ引きで番号の所に座るんです。

 

それで、どういうわけか一番を引いちゃって

一番って前だな、と思ったら一番後ろだったんです。

 

前の方の人は座るんだけど後ろの人は立って描くんですね。

 

そうすると他の人のデッサンも見えるんです。

 

その中にうまい人がいて、それが

 

すいどーばた美術学院の時の夏期講習で一緒だった人で

こいつ入るな、と思ったら入りました笑

 

そんなこんなで彫刻をやりました。

 

中学三年の時に県民会館に上野の西洋美術館のロダンの松方コレクションの巡回展があったんです。

 

その時にロダンの作品に中学生のどきぼうを抜いたっていう感じがしました。

 

なので彫刻は凄いな、と思う下地はあったと思います。

日本画も好きで菱田春草の屏風を国立博物館で見た時は良いなぁ、と思っていました。

 

なので最終的にはたまたま彫刻の迫力に打たれて、そっち方面に行ったんですね。

大学の後に大学院に行ったのですが、そうなれば道は大体そういう方向になりますもんね。

 

それで彫刻の道を目指したんですけど

ただ、私は大学院に残って講師とか助手になるという手が出来なかったし、しなかったんですよ。

 

というのは母子家庭なものだから

 

母親に散々言われていて

 

「東京出てもいいけれど絶対戻ってこいよ」

 

と約束を守らないといけなかったので戻ってきました。

 

戻ってきたら市橋先生が

 

「白山に美術と商業系の専門学校が出来るので、そこに口があるからどうだ?」

 

と言われて、そこから始まったんです。

ただ、それは就職の事だし先生になっても彫刻をずっとやっていこうと

そういう感じでやってきたんですね。

 

Q.彫刻家になって良かった事と大変だった事は何ですか?

A.いっぱいありますね笑

良かった事は作品が理解されて屋外にモニュメントの仕事をさせてもらった事やコンペに応募して入選すると受賞式があり、そこに行くと彫刻家の繋がりが出来たりする。

 

皆さんはそれぞれ面白い仕事をしていると思うのですが

 

そういう意味では私も九州の日向の彫刻展というのがあって

 

そこまで大きな彫刻をトラックに積んでフェリーに乗せて持っていき屋外に展示して

そしてまた持って帰るっていう事を何度かやりました。

 

地元でやっている人とも交流したり、そういう風な意味では凄く面白かったですね。

 

大変だった事は、それが全く大変な事で今、一番大変なのは

それだけで全部回転させるようにやるっていうのは本当に難しいという事がつくづく分かりました。

 

じゃあ彫刻を辞めるかっていう訳にもいかないので

このままずっとやり続けて何か一つでもいい作品が出来ればなと思っています。

 

Q.彫刻の魅力とは?

A.やっていると凄くわかるんですよ。

 

ただ、それを人に説明するのは凄く難しいんですけど

彫刻といっても木彫もあれば粘土もある、私にみたいに金属を鉄とかステンレスを曲げて鋼製して作って、それぞれあるんで一般論としては言えないと思うんですけど

私の場合はやっぱり素材が鉄とかステンレスのいわゆる工業資材を切断したり溶接したりする

 

この方法自身は現代のもので

 

鉄を使った彫刻を遡るとピカソやゴンザレスがいて、ピカソがいたスペインも鍛金でバルコニーの飾り等、そういうのを作れる職人がいるんですよね。

 

そこから技法が出てきて彫刻家になったっていうゴンザレスというピカソの友達がいて

その方法をピカソに教えて、ピカソも鉄の溶接の彫刻というのも作ってるんですよね。

 

私もやり始めた時は特殊な技法としてやり始めて火花が飛ぶし熱がかかるし

普通、彫刻というと木を削るか粘土を付けるかっていう雰囲気がするじゃないですか、一般的にね。

 

それを学校に入った1年の時に一応粘土とかもやるのですが実材の授業では色んな素材で一順繰りやるんですよ。

 

その中で金属の彫刻があって、それを扱う時に火花が出る中、ゴーグルかけてやっている姿がかっこよかったです。

 

金属、石彫、木彫、プラスチック、こういうのを一順繰りさせるんですよ。

基本的なものは二年位までみんな粘土をやるんですけど、その他の実材は1回やらせてから自分たちで選ぶんですよね。

私は金属を選んで未だにその方法で作っているんです。

 

やっぱり彫刻の魅力というよりも、その作り方に凄い魅力というのを感じてしまって

ある意味、粘土で人体を作ろうとすると重心の事を考えないといけないので凄く無理なポーズは絶対出来ないんですよね。

 

人間だって無理なポーズは出来ないのと同じで、ところが鉄で抽象的でも具象でもそうですけど

溶接の力というのは凄くて細い具材の上に塊があって、それを斜めに立てるという事も構造上出来なくもないですね。

 

そういう所がいかにも現代風で面白いなっていう風に思いますよね。

ただ、段々やってくると特殊な技術で特殊な事をやっているっていうつもりでいたんだけど

一般的には特殊な技術なんだけど彫刻の王道に戻ってきたという感じもしますね。

つまりボリュームとかマッスとか、そういう風なものが段々戻ってきている。

ただ、素材が鉄とかステンレス、そんな感じがしています。

Q.制作している上で気を付けている事はありますか?

A.フィジカルな所で言うと怪我しないようにする事。

溶接はアークの光が凄いから目は用心しないといけない。

 

あとは粉塵が凄い事、その辺は気を付けていますね。

 

それと重たい物を足に落としたりしたら大変だし火傷もしょっちゅうですし、そういう所は注意しています。

ただ、彫刻を作るにあたって、どういう所を注意しているというと最近は彫刻の王道に戻ってきている感じがするので板材等を素材にしながらも

彫刻のマッスやボリューム等の塊の美しさ、シルエットラインの美しさみたいのを追究していますね。

美しいという言葉を使うと単調に響くけど彫刻は彫刻という美しさがあって

それはいわゆる絵の美しさとかカラフルだとかの美しさじゃなくて

空間を動かす流動感。そういうのを作っている凄い感じますね。

 

Q.作品はどの位で完成しますか?

A.最近の作品の『行者』は3年位かかりました。

毎日やって3年というわけではありませんが一個の所に半日かかるとか凄いありますね。

 

最近は人体のような感じとかも作っているものだから、一個一個が手作りなんで全部形が違うんですよね。

 

つまり一つのパターンで、こういう形を量産するっていう考え方があまり無くて一個作ると、一個次にいくとか

テーマが似ているものを幾つか作って立てて毎朝見ながら

ここはこうだな、とかやったりしているわけです。

 

普通、粘土で人体作る人はモデルを置いて、見ながら作るわけだけれど

私は人体を作ってもモデルを作っているわけじゃなくて

 

ここはどういう風になるのか?

 

とか

 

どういうポーズでどういう風に、この彫刻を立ち上げようかみたいな所から全部始まるので

実際に作りながら考えるっていう感じなんですね。

だから一個一個、それぞれ時間がかかるという感じです。

Q.今までの彫刻家人生で思い出に残っている事はありますでしょうか?

A.私の作品は幾つか系統があって

 

一つは70年代からやっている『不可思議の森』という彫刻、もう一つは『ライダー・トリックスター』というオートバイに跨がっている人体の彫刻ですね。

 

それぞれ、それを作り始めた時の1作目が自分の中の印象としてあります。

 

『不可思議の森』に関しては学生時代の後半からイメージを作っていたんですよ。

ずっとやってきて、こっちに戻ってきてから西大畑公園に設置しないかという話があって

今、西大畑公園にブロンズの彫刻が設置されてあるんです。

 

原型がここにあって、その原型は鉄で出来ているんですけど

その原型を高岡まで持っていって、そこで設置したんですね。

 

それから大分たってからですが巻の矢川ふれあい公園の入口に『不可思議の森オリジン』(同じ原型+別の原型を混ぜた作品)というのが立っているのですが

それは巻町(現在の西蒲区)最後の町長の声がかかって

矢川ふれあい公園に設置したんですね。

 

設置してから何年か後に巻町は市町村合併で無くなったわけで

 

ある意味では、思い出があります。

 

それから『ライダー・トリックスター』に関しては90年代の頭位から始まったんですけど、それまでの80年代は丁度バブルとか言われている頃だったけど

自分の方向性としては中々、定まらない所があって

そういう風な中で『不可思議の森』はずっとイメージとしてはあったのですけど

三次曲面的な要素を作れないかな、と思ったんですよ。

 

でも板で三次曲面、つまり卵の形を作ろうとするのは難しいじゃないですか。

 

でも丸い、こっちに突出してくるような物を作りたいので帯鉄という3cm幅位の長い鉄を篭のように編んで溶接していって

隙間を埋めてグラインダーかけて卵を作ったんですね。

 

そういう操作してやり始めたら、三次曲面が色々作れるようになってきた。

 

それを見ながら見ると人体のようなカーブを思わすのと、それから卵のような感じが未来のタイヤのようなイメージがありまして

そこからオートバイ乗りとオートバイが曲面で繋がっていくイメージで作り始めたのが『ライダー・トリックスター』

それは横浜彫刻祭で受賞して横浜に展示したのと名古屋でステンレスの彫刻が設置されてあるのと

東海村のコンペというのがありまして、そこで受賞したり県外のコンペや企画展に参加して

自分の世界が広がったというか色んな所から見てもらったという経験がありますね。

 

あともう一つは『セバスチャン』のシリーズというのがあって

これは男の人体なんですけど東日本大震災の時のショックがあって、そこからイメージが出てきたんです。

 

東日本大震災を表現しようとか、そういうんじゃなくて東日本大震災のあの映像を観ていて気分が本当に落ち込みますけれど

 

そういう中で何か描かなきゃ!

 

というような、その時は彫刻で作るというよりもドローイングだったんですね。

 

描いていく内に『セバスチャン』の原型となる男が吊り下げられているというイメージ

 

それがあって何枚もドローイングをやりました。

 

そこから人体の立体にした作品が『セバスチャン』なのですけど、それまで勿論人体を作っていたわけですけれど

あの形だけは震災以降の、その時の自分のイメージの内発性みたいのが、そこに作用していたと思うんですけど、ある意味では特殊な形だと思います。

 

そういう流れがありますね。

 

Q.大地の芸術祭に参加したきっかけを教えて下さい。

A.大地の芸術祭の総合ディレクターが北川フラムさん、彼が妻有地区で開催した理由は一種の町起こしで、そこに現代美術を投入して地域活性化を図ろうとしたんですね。

北川さんが作品を作ってやるわけじゃなくて、北川さんはディレクターなので誰をここに呼んでくるのか?

 

というのがあり

 

新潟でやる以上、新潟の美術家を参加させなきゃ駄目だという考えのもと、新潟の美術家についての説明会がありました。

それに参加したのですけど、その話は知り合いの現代美術家の前山さんや堀川さんに誘われ行ってみたんですね。

 

ただ作品を作って、ここに置けるというんじゃなくて色んな候補地を巡って

自分がやりたい所のコンセプトデザイン(ラフスケッチ)の提出をお願いされました。

 

その時に妻有でやる意味と形はどういうものなのか?

 

自分がやっている素材で置けて見れるものは何か?

 

色々考えたんですね。

 

『不可思議の森』の原型と『螺旋の蛇』と、あと3つ位

 

空き地の草を刈ってもらいました。

 

直接、鉄の素材をそこにただ立てたままにした場合、倒れり壊れたりすると困るから

倒れないように設計して、そこに設置するという手間がありました。

そこに作品を持っていき、ボルトでジョイントして安全な形にして多少ボルトレベルを埋め戻して参加しました。

(大地の芸術祭は)相当規模も大きいし、あれだけ広いと物量がないと、とってももたないというのがあったので

トラックを使ったり友達をスケットで頼んだり丸一日以上かかって設置して

そんな所から始まったんですね。

 

二回の参加の時に『螺旋の蛇』をキナーレの現代美術館の前に設置するっていう話があって設置したんですね。

 

三回目が松代の農舞台の前に『パイロン』のシリーズを何点か設置しました(企画中限定で)

ああいう広大な風景の中に現代美術の彫刻を置くっていうのは確かに面白いコンセプトですよね。

 

ずっと続けていくのは大変だとは思うのですけど

ああいう屋外の祭典というスタイルは無かったし面白いと思いますよ。

 

Q.長く彫刻家を続けていく秘訣とは何ですか?

A.ロダンとかミケランジェロとかを惚れていたせいもあって

彫刻を自分の仕事として、ずっとやっていくという時はバックボーン(背景)でしょうね。

 

やっぱり生きていかなきゃいけないので、お金になる仕事

それが彫刻であれば一番いいのだけれど、そうもいかないから

志をずっと続けていく為にも、それを支える為にも色んな事を考えていく必要がありますね。

 

だから彫刻か就職かっていう事ではなくて仕事をするっていう事は絶対、彫刻を作るっていう事にプラスになります。

 

仕事して仕事のやり方を覚えて彫刻の仕事に繋げるっていう事は出来ると思いますね。

 

そういう意味では私は学校に勤めて教えたという事は凄く良かったと思います。

 

Q.これからやってみたい事は何ですか?

A.彫刻を作り続けていきたい。

 

それが、やってみたいという事よりもやるべき事だと思っているんですけど

段々歳をとってきて体力も無くなったし大きな作品は中々作れない。

 

だけど凄い偉大な人間の事を考えると、そうも言ってられないんだけど

例えばロダンだって一線で彫刻を作り続けたしミケランジェロも時代は違うけれど

最期までノミを振るい『ロンダリーニのピエタ』を作りましたが、それが凄い感激的な作品ですよね。

 

イタリアでグループ展をやらせてもらいましたけれどミラノのスフォルツェスコ城を見た時、本当に凄いと思いました。

 

あと巨匠と言われている人の最晩年の作品を考えると

例えば葛飾北斎の富嶽百景や神奈川沖浪裏(波の絵)は70代入ってからだからね。

 

江戸時代で70代であれが始まるという事が凄いと思うんですよね。

 

富岡鉄斎も80過ぎないと良い絵になってないもんね。

 

そんな風に自分の彫刻も熟成させていきたいと思います。

 

ただ自分がやっているのは鉄でやっているものだから、その方向でどうやって作るのか?

 

というのと

 

もう一個、具体的にあるけれど実現出来るかが言いづらい所があるけど

等身大の作品を今、チャレンジしたいなと思っています。

 

【まとめ】

今回、双璧寺様のご縁により星野さんとお会いする事が出来ましたが

芸術の大先輩にも関わらず物腰が柔らかで貴重な時間をさいて取材に応じて頂けた事は感謝のほかありません。

どうも有り難うございました!

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