鳥追観音如法寺900年の時を超え秘仏公開!経緯と副住職の人生とは

2021年6月、そして10月に西会津町を代表するお寺である鳥追観音如法寺で900年という長きにわたる時を経て秘仏がご開帳する事になった。

SNSでこの事実を知ったぼくは歴史的な瞬間を目の当たりにすべくコロナが落ち着き始めた10月に鳥追観音に向かった。

 

お寺の駐車場には車が沢山停まっていて境内は賑わいをみせていた。

 

仁王門で秘仏ご開帳の300円の参拝料を払い記念の木札を貰うと背の高い緑の木々に囲まれた観音堂の境内に足を踏み入れた。

境内は大きな観音堂を中心に開山堂や土産物屋、福島県の天然記念物であるコウヤマキの巨木が真っ直ぐ伸びていた。

 

で、件の秘仏がある観音堂に入ってみると直ぐにその「お姿」が目に入った。

 

本尊は聖観世音菩薩立像で木製の装身具等が付いてなかったと思うシンプルな造りの仏様だった。

秘仏なので写真等は無いが、900年を経てのご開帳貴重な体験をしたぼくは、この目に焼き付けてその場を後にした。

西会津から新潟に帰り、日が立つにつれ鳥追観音の秘仏について疑問を抱くようになった。

 

 

何故900年間公開されてこなかった秘仏が今公開される事になったのか?

 

 

と。

 

そんな思いが頭を巡っていたある時、インスタグラムで鳥追観音さんにフォローをしていただいた事をキッカケに

ぼくの活動の一つであるお寺への取材をお願いした所、快諾してもらい

副住職さんに秘仏や鳥追観音、副住職さん自身のお話をお聞きする事が出来ました!

 

今回は初となる県外のお寺の取材であり鳥追観音についてや副住職さんの貴重なお話を記事にしてみたのでご覧下さい。

 

【900年間の時を超え秘仏を公開!】

 

副住職の光善さんにお会いした時、秘仏を公開した理由を聞かずにはいられなかった。

 

公開した理由・・

 

話は秘仏を発見した三年前までさかのぼる。

 

観音堂に文化財の先生が調査が入った時の事だ。

 

現在須弥壇の両脇に並べられている仏像が三十三応現身像(観音菩薩が様々な姿で現れた像)

凄く貴重な物であるという事が判明した(その時に仏像は文化財の指定を受ける事になった)

この調査の時に秘仏の話になり、現状を確認した方がいいだろうという流れとなった。

 

だが秘仏がある場所が分からなくなったが唯一秘仏を見た事がある光善さんの祖父の存在だった。

秘仏が県の重要文化財に指定される時に写真がないとダメなので秘仏を撮ったという話があったからだった。

 

祖父の話では現在拝観出来る観音菩薩の御前立ち(お部屋)の上にあるというので

天井裏を探したのだが、それらしいのは何もなかったそうだ。

 

今度は御前立ちを調べた所、その後ろが出っ張っていて秘密の部屋のようになっていた。

違和感があると思い脇の壁を全て剥がして調べた所、真っ暗な部屋の中に秘仏が立っていたというのだ。

 

運びだされた秘仏を調べた所、修復した方がいいだろうという事になった。

 

ただ元々住職も光善さんも秘仏を公開しない方向であったのだ。

 

理由として

今までの住職が秘仏を守ってきたのを自分達の代で公開するのはあり得ないし面目が立たないので

修復が終わったら元の秘仏の部屋に帰って頂こう

 

という流れであったのだが、それを覆したのは秘仏よりも大変な400年以上たつ観音堂の存在であった。

1200年以上たつ鳥追観音の歴史の火災で二回お寺が焼けた事があり、秘仏はその時に焼けてしまう。

 

その次にお寺が被害を受けたのが大地震を会津を襲う。

 

この慶長会津地震では鶴ケ城を含め神社仏閣が大打撃を受け被害者も3700人以上と言われる大惨事だった。

その2年目(東日本大震災の400年目)に観音堂は再建されているので408年経過している事になる。

 

その間の雨や風、雪によって観音堂の壁が腐ってしまった壁を一刻も早く復元しないといけなかった。

 

だが、そんな時にコロナという最悪な事が起こり参拝者が激減。

 

その為、収入が無くなり観音堂を守っていく事が出来ないので住職と相談の上、拝観料を頂戴し秘仏を公開するという事になったのだ。

【西会津の古刹如法寺】

鳥追観音と知られる西会津の金剛山如法寺の本堂は道路を挟んだ向かい側にあり

会津さんころり三観音(他二つは弘安寺と恵隆寺)の一つとして知られている。

如法寺は歴史は古く、大同二年(807年)に奈良から会津にやってきた徳一が会津を仏の都とすべく磐梯山麓の慧日寺の次に如法寺を創建。

他にも勝常寺、柳津の円蔵寺、慈眼寺(示現寺)を創建し民衆から菩薩として尊信されていった。

 

如法寺に関して詳しくはこちら

 

■鳥追観音如法寺HP

http://www.torioi.com/

■住所

西会津町野沢字如法寺乙3533

■拝観時間

4月~11月 午前8時30分~午後4時

12月~3月豪雪地帯のため閉門している場合があり要お問い合わせ

【鳥追観音と徳川家の関係】

光善さんとお会いした時に少し気になる事があった。

それは袈裟に葵の御紋が付いていた事だった。

理由として真言宗室生寺(むろうじ)派の如法寺の本山が室生寺という女人高野のお寺である事

その室生寺に寄進をしたのが徳川家(徳川家光の側室の
桂昌院)であるからだ。

 

また葵の五紋の上に丸が九つある寺紋があるが観音堂の屋根にある九曜星が宗派の紋として袈裟についている。

因みに水戸徳川家の血筋である会津松平家の松平容保が鳥追観音に必勝祈願の御参りにきたと書物で伝えられている。

 

【如法寺の見所】

如法寺の見所は沢山あるが先ず駐車場の目の前にある仁王門から紹介すると

慶長16年(1611年)に会津を襲った大地震で観音堂と共に被害にあった後に慶長18年(1613年)再建されたもので中世からの貴重な作りが至る所でみられる福島県の重要文化財である。

仁王門を潜ると可愛いお顔立ちの一休三地蔵に見守られ西会津のランドマーク的な観音堂が目に飛び込んでくる。

観音堂にはテレビでも紹介された事がある有名な『隠れ三猿』が彫られているが日光東照宮の彫刻を彫った左甚五郎の作品である。

 

内部には抱きつきながらお願いをする抱きつき柱や身代わりなで仏の金剛力士像、観音堂の本尊聖観世音菩薩像など沢山の仏像を拝観出来る。

因みに観音堂の正面は仁王門からみて左手であり東から入って御参りして西口にでるという珍しい構造になっているが、これは観音菩薩の導きにより西方浄土へと往生が叶うという意味で作られている。

 

境内には他にもコウヤマキという福島県天然記念物の高さ30メートルもする東北最大の巨木があり観音堂を見守っている。

他にも江戸時代に作られた弁財天堂や石造五輪塔、句碑、開山堂、水子地蔵などがある。

如法寺の本堂側に行ってみると役目を終えた回転式雪カキ車・キ621が展示されていて

境内には六地蔵と鐘楼があり、山門は江戸時代に建てられたもので重要文化財に指定されている。

本堂内部には本尊の不動明王が鎮座していて会津五色不動尊の一つ『出発不動』として知られている。

この不動明王は窓越しでも見る事が出来るのだが、この時特別に副住職さんの奥様に入り口を開けて頂いて拝観できたが、ふっくらした顔立ちの愛嬌のあるお不動さんでありました。

 

なを他の不動尊が祀られているお寺は以下の通り

●『奮起不動』西勝寺(猪苗代町新町)
●『離脳不動』龍興寺(会津美里町高田)
●『慈愛不動』慈恩寺(南会津町田島
●『青春不動』常楽寺(南会津町福米沢)

【西会津の観光スポット】

鳥追観音と並んで西会津の有名な観光地である大山祇神社は鳥追観音がある県道339を進んだ先にあり宝亀九年(778年)に真海法師の勧請により宝亀十年に創建された。

ご本社は駐車場から四キロ先にある山の中にあるのだが急な斜面を歩いていかねばならず甘くみてはいけない(キツくてぼくは途中で引き返した)

また、ご本社までの参道は『ふくしま遊歩道50選』に指定されている美しい道であり

途中、真海法師が17日間水行し不動明王のお告げを聞いた不動滝弥作滝があり、ぼくは何度か滝壺の中に入った事がある!

境内の滝に関してはあと二つ鬼滝と三神滝があるが、こちらは奥の院参拝同様に
ガイド必須となっている。

●大山祇神社HP

http://www.ooyamazumi.net/

また、今回の鳥追観音の取材の前にネットで発見した弘法岩屋という洞窟神社があるというのを知ったので

行ってみたのだが西会津のセブンイレブンがある交差点を起点に安座地区を目指して真っ直ぐ進んだ先にある。

道路は小高い丘の麓で途切れるのだが、そこが弘法岩屋の入り口であり洞窟神社へと続く階段になっていて境内からの見晴らしもいい(歩いて10分もあれば神社に到着できる)

この神社の由縁に関しては昔、沼の大蛇が大地震によって死んで悪霊となり人々を苦しめていた所、弘法大師が洞窟で護摩を行い悪霊を鎮めた。

弘法大師が去る時にこの洞窟を弘法岩屋を称して、村の名前も沼岡村から安座村に改めてと言われ、この地域の歴史に深く関わっている場所なのだ。

行き方はこちら【地図

因みに会津の滝についてはこちら

福島県で滝行してきた!オススメ滝行スポットと会津地方の滝を紹介

【副住職の三留光善さんにインタビュー】

●夢は保育士だった光善さん

お寺生まれである光善さんであるが小中と友達に恵まれなかった不遇の子供時代を送っていた事もあり

それを心配した親が家にいる時くらい好きな事をしていいと言われた事もあり色々ワルさをしたらしい。

 

その後、何とか高校に進学した時に光善さん的に良い先生に出会う事ができたようで

その先生は「好きな事をやれ」と言ってくれる方で「自分は好きな事をやっていいんだ。」と前向きに思う事が出来たようです。

 

高校卒業後、大学に進学する事になるのだが

その時はまだお坊さんになりたいと思っていた訳でなく大学に行って夢を見付けられればと思い京都の密教系大学である種智院大学に入学。

 

光善さんは仏教学科であったが福祉学科の人達と交友があり彼らが自身を導いてくれた存在であった。

 

「自分の個性を大切にしてお前なり生きていったらどうだい?」

 

そう言ってくれる学友たちの助言があった事で自分なりに出来る事は何だろう?

と考えた時に仏教とは素晴らしいものという風に感じてきて職業としてのお坊さんではなく

 

 

お坊さんとは何だろう?

 

 

と深く考えるようになった。

 

寺生まれだから使命感としてお坊さんになるのではなく、お坊さんも一つの道なのではないか?

 

と考え方が段々と変わっていったと語る光善さん。

 

なろうと思ったよりも導いかれた感じたのは寺生まれだからという風が大きかったのかもしれません。

ただ、沢山の人がくる鳥追観音ゆえに参拝者やリピーターの方と話したりする事が出来るのが

光善さんがお坊さんになって良かったと感じた事です。

 

ただ、だからこそ

仏教とは?お坊さんとはどうあるべきなのか?お寺とはどういう所なのか?

 

という事を考えていかないと仏教が駄目になっていくので

鳥追観音という場所に生まれたからこそ他のお坊さんに出来ない事をやらないといけないと思っているので

なるべく御参りに来た人達と話していかないといけないな。

 

と仰って頂きました。

 

もう一つのお坊さんになった理由は親孝行で小中笑えない程の虐めを受けた事で毎日死ぬ事を考えていた時に年上の先輩に気にかけてもらった事で救って貰えた。

だから人を大切にしたい!(
関わりを大切にし友達を大切にする)と思う事は人一倍強い義理堅い性格の持ち主のようです。

 

●100万円貰えても絶対やりたくない修行

光善さんが大学に入学し一年目の春に修行をする事になるのだが約2ヶ月山にこもってやるのだが

それは厳しいもので元々長かった修行を短縮したものなので修行開始時間が朝の二時位に叩き起こされて終わるのが23時。

しかも若いから眠れなくて、眠れるのは一時間位。

 

最初の10日間位はもうろうとした死を意識した状態で過ごしたという。

 

修行内容は修法という御祈祷がメインで様々な仏様を供養する護摩行や礼拝行(立ったり座ったりして祈る)を覚える。

期間中は山にこもり外からの情報は遮断(テレビ・電話禁止)

もちろん酒タバコ禁止。

食事は肉は絶対出ないのとネギ、納豆など匂いのキツイものやワサビ、カラシ等刺激臭のある食べ物禁止。

 

その代わり白飯は食べ放題で逆に太った人もいたようだ(光善さんは五キロも体重が減った)

また諸堂参拝といって本山にある幾つものお堂に御参りするのだが、そのお堂に祀ってあるのは仏様だけでなく日本の神様も祀ってある。

神様にも般若心経を唱えたり御参りする理由は昔の人は神仏関係なく大切にしていた事

神社はお坊さんが管理し神主的な役割も果たしていた事から、お礼の意味で参拝するのだ。

 

休憩時間は1日の中で30分しかなく昼を食べている最中に先生が次の修行時間を連絡するのだが、12時半にご飯を食べているのに45分からだ、という。

 

食堂から道場までは早くても8分はかかるので早食いをして走っていくのを一ヶ月以上も続く。

 

そんな厳しさに光善さんは4日目位には泣いていたという。

当時を振り返り100万あげるから行ってこいと言われても二度とやりたくない

と言わしめた地獄のような日々だったようです。

●日本の仏教について

お寺離れが増えている日本の世の中についても語っていただきましたが

その理由は時代の流れもあるが、お坊さんもお寺離れが増える要因の一つのようです。

 

つまり葬式仏教と言われている位、仏教のイメージが悪化していて、お坊さんの仕事は葬式をあげるだけなのか?

 

という風になってきているから若いお坊さんを中心にイベントや座禅会を開催しているから

光善さんも仏教のイメージが悪くならないように

仏教とは素晴らしいものなんだという事を理解していただきたい旨を語ってくれました。

 

また、新興宗教が増えた事やオウム真理教が事件を起こした事で

無宗教者が増えたが、実は仏教とはそうではなく凄い教えで素晴らしいもの。

 

葬式で亡くなったから仏教を学ぶのではなく生きている内に仏教を学ばないと何の効力もない。

 

仏教とはどうやって死ぬのか?

 

ではなく

 

仏教とはどうやって生きていくのか?

 

であるから考え方は人それぞれだけど少しでもいいから仏の教えを学ぶ事により凄く楽に生きていける。

 

例えばお金を稼いでいた人が年をとった時に何を生きがいにしていいのか分からなくなった時や

愛した妻が亡くなった時、自分も死のうという人もいるから

そうではなく、そうなった時にどう生きていくのか?

 

それで、どう幸せを感じていければいいのか?

 

仏教を学ぶ事によって生きやすくなる。

 

完璧ではないけれど心の中が楽になっていく。

 

そういう事を光善さんは皆さまに伝えていきたいとの事で仏教の大切さをぼく自身気付けたと思います。

●お坊さんになって良かった事

 

御参りに来てくださる方が喜んでくれる事。

 

また来たいと言ってくれる方もいるし心配してくれる方もいる。

御参りに来てくれる方が気にかけてくれるのは有難い事。

 

また光善さんが拝んだり話したりする事で涙を流して喜んでくれる方もいて、それは良かった事。

●日々大切にしている事

自分の心を一定に保つ事。

大学から帰って来た時、元々身体を動かす方が得意だった光善さんは観音堂で一日座っている事が我慢が出来なくて

毎日イライラしていた過去があった。

 

それが歳を重ねる毎に段々と平らになってきたから、そういう努力をしないといけない。

 

人と話す時は、どんな人にも笑顔で接して心を一定に保つ事(怒らない事)が大切だという事を心がけているいるようです。

それが修行であるとも語る光善さん。

 

●これからやってみたい事

必死に観音堂を守っていく事。

お堂は修復をしていかないといけないので、どう維持していくのか。

 

また小学生から剣道をやっているので子供達を強くしたい事もあり、光善さん自身剣道をやって来た事で仏教に導かれたと感じるのは

剣道の先輩後輩が立派や人が多くて、そういった人達に助けられたからのようです。

 

●お寺の衰退について現状とは?

葬式仏教になっているので、お坊さんのいる意味を個人個人考え直す。

 

頑張っている人もいるが人々の救済に繋がっているかというと、なっていないのが現状。

仏教を学ぶのは素晴らしい事だけど活かせていないので、仏様(お坊さん)のやるべき事=民衆の救済だから人々を救わないと意味が無くなってしまう。

 

どうしたらお坊さんは人々を救えるのか?というのを考え直さないと仏教自体が必要とされなくなってくる。

個人個人の努力がないとお寺の衰退というよりも仏教自体が衰退していく。

 

【まとめ】

今回光善さんにお話を聞いて思ったのは、光善さんは仏教に対して真摯な思いを持ち鳥追観音の副住職としてお務めしているという事でした!

また取材したからこそ分かった900年間公開されてこなかった秘仏の裏事情や観音堂の現状。

初の県外となる西会津のお寺の取材でしたが膨大なネットの中でも知り得ない情報が沢山でした!

 

これからもお寺の取材を続けますが県外のお寺等も色々行ってみたいと思っています。

まだまだ知り得ぬお寺の情報を求め、ぼくの旅は続きます!

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