チベットの歴史

チベット激動の歴史『シャンシュン王国から文化大革命までを振り返る』

投稿日:

今では旅人を惹き付けてやまない秘境であり虫も殺さぬ優しい人々が暮らすチベットであるが始まりは一体どうだったのか?

 

チベットの年表を調べてみると仏教と戦の歴史抜きに語れない歴史がそこにあった。

 

 

それは一体どういう事なのか?

 

 

チベットを旅している画家であるボクが訪れた史跡・寺を交えて悠久の歴史を語っていこうと思う。

 

【チベット人の起源は猿から始まった。】

人類学において人間の起源は猿とされているがチベット人の起源も猿かは始まった。

ただしチベットの場合は観音菩薩の化身であるオス猿とターラ菩薩の化身である岩の精女の間から生まれた六ぴきの小猿が始まりである。

 

小猿達は観音菩薩の導きの元、歩んで行き穀物を育て遊牧民や農民が誕生していった。

 

【西チベットのシャンシュン王国】

西チベット(ンガリ)にはカイラス山という仏教やボン教等の聖山があるが、カイラス山周辺にあった伝説の理想郷シャンバラとよく似た名前の国があった。

 

その名はシャンシュン王国である。

 

シャンシュン王国の起源は定かではないが現在のチベットにも信仰されている土着宗教ボン教を信仰していた。

この王国に住んでいた人々は後に東チベットとして知られるカムまで歩んでいき定住する事になった。

 

定住した人々の末裔はギャロン地方に住む人々とされ、この一帯では石造りの塔があちこちで見ることが出来る。

因みにシャンシュン王国は王国を離れたトン族が作ったヤルルン王朝のソンツェンガンポにより滅ぼされる事になる。

 

【ヤルルン王朝の誕生】

 

時は紀元前二世紀半ば。

 

ヤルルン渓谷にツェンポ(王の称号)を持つニャーティツェンポが現れた。

彼はチベット最初の王とされているが神の子とされる王は役目を終えると天に還り墓等が存在しない為か実在するかどうかは定かではない。

しかしそんな王の中で史実の中で知られているのは七世紀の初めチベット全土を統一したヤルルン王家のソンツェンガンポ

ソンツェンガンポが統一した国の事を吐蕃国(とはんこく)と言い13歳で即位した王はインドで学んだ大臣トンミ・サンボータにチベット文字を作らせインド仏教経典の翻訳、官僚のヒエラルキーを整えた。

その後、観音菩薩の化身であるソンツェンガンポが統治する吐蕃国に唐とネパールは二人の姫を嫁がせた。

 

姫の名は唐の文成公主、ネパールのティツン妃

 

彼女達がもたらした仏教は現在でも生きていてチベット人の心の拠り所となっている。

 

また姫達が持参した仏像はチベットで見ることができ文成公主がもたらしたジョカンのジョウォ・リンポチェやラガン・ジョウォと呼ばれる釈迦像である。

因みにジョカンがあるチベット自治区入域は高額で中々行く事が出来ないがラガン・ジョウォがあるラガンは四川省にあるため簡単に行く事が出来る。

妃達を迎えた、その後も吐蕃は強大となっていき現在の西安まで占領。

 

吐蕃国と唐は国境を定め、お互いに侵略しないと誓った。

 

しかし後世の世となるとその誓いは中国により破られチベットは恐ろしい結末を迎える事になる。

 

【チベット仏教の生みの親グル・リンポチェの登場】

チベットに仏教が根付いているのはパトマサンバヴァが仏教(密教)を広めた事が原因である。

 

 

彼はグル・リンポチェ(導師様)と讃えられるインド人であり様々な伝説的逸話が残っている。

 

 

八世紀ティソン・デツェン王の時代。

 

仏教を国教と定めた王はチベット初となる仏教寺院サムイェ寺建立の為インドより招かれた僧侶シャーンタラクシタと密教行者パトマサンバヴァの躍進により寺を完成させることに成功した。

 

なをパトマサンバヴァの生涯についてはこちらの記事を読んで欲しい。

空を飛んでチベットにやってきた高僧パトマサンヴァパとは一体何者?

完成したサムイェ寺では初の出家者である僧侶がサンガ(僧侶集団の意)を作ったり仏教経典の翻訳等を行っていった。

 

しかし9世紀に表れたボン教復興を目論んだランダルマ王は仏教を弾圧したが、それが仇となり暗殺される事になる。

 

王朝はそれが元手で内紛により分裂した。

 

【チベット仏教の復興】

王朝の分裂はチベット各地の僧団・首長の勢力を勢いづかせ約400年もの間、彼らが各地域の支配者となった。

一方王家はというと西部に逃げ延び、西チベットやラダックを支配する事になる。

 

 

ラダックを統一した王の名はラチェン・パルギゴンと言いシェイを王都に定めた。

 

 

10世紀ラダックの隣国グゲ王国では仏教復興に熱心なイェシェ・ウーが登場し王自身も出家したりカシミールに僧侶を派遣するなどした。

 

カシミールに派遣されていた高僧リンチェン・サンポはカシミールの技術者達と共に帰国し仏教経典の翻訳、多数の僧院を西チベット、ラダック、スピティ地方に建設した。

13世紀に入ると強大な元王朝(モンゴル)がチベットに侵攻し猛威を振るったがサキャ派座主サキャ・パンディタとの元王朝側の対面の要請に答え、チベットはサキャ・パンディタを派遣する等して元王朝の支配を回避した。

 

またこの時、同行していたパクパは後に元王朝の国師になり元にチベット仏教を広めさせた。

 

その結果チベットは元王朝の庇護を受ける事になりサキャ派は勢力を増す事になるのだが元王朝が弱体化するとカギュ派の一派パクモドゥ派がサキャ派政権を滅ぼした。

 

その後カギュ派政権が誕生し転生活仏制度を導入する。

転生活仏とは高僧が亡くなると生まれ変わりを探し後継者として育てるというもので代表的な制度はゲルク派のダライ・ラマ制度である。

 

【チベット仏教界のスターツァンカパの登場】

現在のチベット仏教の礎を作ったのが15世紀に登場したツァンカパである。

ツァンカパは密教と顕教(密教以外の教え)の統合を図り彼が教えを施したゲルク派はチベット全土に広がっていった。

 

16世紀モンゴルからソナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を授かった事が要因でゲルク派の地位が固まる。

チベット仏教を築いてきた人物はグル・リンポチェやツァンカパの他にも多数の高僧が存在する。

彼らをまとめた記事もあるのでチベット仏教の開祖に興味のある人は読んで欲しい。

チベット仏教を築いてきた高僧達。その知られざる生涯を徹底解析!

【ダライ・ラマ5世によるポタラ宮の建設】

17世紀に世界遺産として知られるポタラ宮が『偉大なる5世』として知られるダライ・ラマ5世(ガワン・ロサン・ギャツォ)によりマルポリの丘に建設。

またラサを首都として定め宗教政治を統一しダライ・ラマ5世政権の名実は白日のものとした。

 

その頃中国では満州族による清王朝が樹立。

 

満州族はチベット仏教を尊重し時の皇帝乾隆帝は小ポタラと称される普陀宗乗之廟やサムイェ寺を模した普寧寺等を建てた。

 

【清によるチベットの干渉】

18世紀チベットでは僧侶の生活に馴染めなかったダライ・ラマ6世(ツァンヤン・ギャツォ)死後モンゴルの傀儡ダライ・ラマ7世(エツェ・ギャツォ)とリタン生まれの転生者ケルサン・ギャツォがダライ・ラマの座をめぐり争う。

1720年チベットとモンゴルの間に入った清によりケルサン・ギャツォがダライ・ラマの称号を得て清の庇護の元ラサに戻った。

 

ダライ・ラマ8世の時代になるとネパールがチベットに侵攻し対処出来なかったダライ・ラマは清に援軍を要請し撃退する事が出来たが結果として清の干渉を受ける事に。

 

ダライ・ラマ9~12世の時代、次々とダライ・ラマが若くして謎の死を遂げていく。
背景には貴族間の利権争いがあると言われている。

 

【20世紀のチベット】

1903年チベットにイギリスが侵攻し翌年ラサ条約を締結。1910年に清がイギリス軍の撃退の名のもと進軍しダライ・ラマ13世は英国領インド等に亡命。

その頃清では辛亥革命が勃発し清が滅び1912年に中華民国が成立した。

1913年にチベットの独立を宣言したダライ・ラマ13世はチベットに郵便局、貨幣、国旗の制定等の近代化を進めた。

 

翌年、中華民国にチベットの宗主権を有するがチベットに自治を認めさせるシムラ協定がイギリス・中華民国・チベットの間で行われ仮調印(中華民国は正式な調印を拒否)

 

その後、宙に浮いたままのチベットであったが1947年のインド独立に伴い2年後に中華人民共和国が進駐する形でチベットを支配下に置いた。

 

【悪名高き文化大革命】

1950年わずか15歳のテンジン・ギャツォがダライ・ラマ14世に即位し政治と宗教の最高指導者となる。

 

チベットは国連に提訴するも相手にされず1951年に中国とチベットの間で17ヶ条協定が結ばれる。

 

17ヶ条協定とはチベット政府側の要望(独立とチベット政府側のチベット全土の自治権)を退け中国に併合する一方でチベット政府側に西蔵(カム・アムド以外のチベットエリア。現在のチベット自治区や西チベットを指す)の自治権を与えるものだった。

 

この条約に調印したのは中国の息のかかったンガワン・ジクメ。

 

彼はカムの知事であり中国の武力侵攻の際、チャムドで中国の防衛にあたった司令官であったが後に中国により思想教育を受け手先になる。

 

ダライ・ラマ14世の家庭教師ハイリンヒ・ハラーの半世を描いた映画セブン・イヤー・チベットではンガワン・ジクメや中国の侵攻が描かれている。

またクンドゥンではダライ・ラマに即位し中国に翻弄されインドに亡命した14世の話が描かれている。

 

1955年には独立派によるチベット騒乱が起こり1959年の中印戦争を受けダライ・ラマ14世はインドに亡命しチベット亡命政府を発足。

1966年、失脚した毛沢東が復権するために起こした文化大革命が始まり終息する1977年までに数多くの僧院が破壊された。

その為、現在のチベットでは当時の寺院は殆ど残っていないがインド領に組み込まれていたラダックにある僧院は破壊を免れた。

文化大革命後のチベットでは度々騒乱が起き今なを続くチベットにおける人権問題が度々クローズアップされている。

2000年中国政府が西部大開発をスタートし6年後には青海省~ラサを結ぶ青蔵鉄道が開通し観光地となったチベットに多数の漢族が流入した。

またダライ・ラマ14世が亡命した後にあとを続くように数多くのチベット人が亡命し世界中に難民キャンプコミュニティを築き

 

 

「フリーチベット」

 

 

と叫ぶ中国への抗議のデモ運動や抗議の焼身自殺が繰り返されている。

 

【まとめ】

チベットの歴史はシャンシュンから始まり吐蕃国~吐蕃国の分裂~宗教間の内紛~清王朝の干渉~中国の侵略や文化大革命があった波乱の歴史である。

 

中国に併合されているチベットは将来どのような結末を迎えるのか?

 

 

答えは現中国政府の方針で決まることになるだろう。

 

 

-チベットの歴史

Copyright© 漫画仏画絵師 , 2019 All Rights Reserved Powered by STINGER.